先日、生産者の方とお話をしていて、消費の現場でも生産の現場でも違和感がある事をお話ししました。
価値観の違い、もしくはもっと別の、言葉にするのが難しい「何か」。
「本質」からズレてしまっている感覚。
では、「本質」とは何か?
ある料理人にとっては「素材」は唯の「モノ」だろう。
味と金額だけでモノを判断する。
お金で買える。
いつでも買える。
安ければ安いほど良い。
それを大量に発注して、大量に仕込み、大量に安く売り捌く。
これができる料理人ほど大体は「仕事ができる」と評価される。
本当にそうだろうか?
これは料理人やパティシエ、ソムリエ、バーテンダーにも共通する。
どんなに単価が高くなろうが、レベルが高くなろうが
「素材・材料はどこかの誰かを窓口にして買ってくる」
みな自慢げに語るのだ。
「高いんですよ」
「他では買えないんですよ」
「自分だから業者が用意してくれるんですよ」
その次元で停止しているのだ。
私は常々思う。
「その生産者とは、どのような関係性ですか?」
もはやこの一言で充分だ。
単純ですよ。
「その人がどんな人で、どんな事を想って日々挑戦しているのだろう?」
これを共有できなければ、料理に、皿の上に、グラスの中に、表現など出来ない。
味と情報だけで「できているつもり」「消費者よりも優位性があるから会話をリードできる」だけの人が目につく。
この想いが共有できないままでは、生産物は、ただ高価で、お客さんが「へへぇ!!」と崇めてくれるだけの便利な道具に過ぎない。
勿論、正解なんてある様で無い世界。
それぞれの思いでやっている事。
何が正しくて、何が間違っている訳でも無い。
別に私が正しく無いかもしれないし、そこに想いを汲み取る必要も無いかもしれない。
でも、それでも、結果は違えど、その結果が悪く出ようが、良く出ようが、プロセスは自分の想いで選ぶ事は出来る。
それは売れるからやる訳でもなければ、売れないからやめる、というものでも無い。
その源はアイデンテティであり、「その人」そのものなのである。
「モノの本質」
それは「その人」なのです。
だから私は「生産者と話をする」のです。
その果てに私はナチュラル・エッグ・ラボさんの卵と、花房牧場の花房和牛を使わせて頂いているのです。
人間臭くて不便で非効率な事が、このドライで均一で安くてすぐに手に入る事が有り難がられる時代には価値が出ると感じています。
このウェットさが「唯一無二」の「モノ」の本質だと思っています。